講演のメモから:立憲主義と新9条論と9条削除論

立憲主義と民主主義は必ずしも協調しない。むしろ緊張関係にある。
民主主義とは権力を作り出すこと、権力が行使されるということであり、積極的な作用がある。
一方、立憲主義は政治権力を抑制する。権力に対してブレーキをかけるネガティブな要素がある。このように立憲主義と民主主義には緊張関係があるということであり、繊細な働きかけが求められるということである。

こうした観点に立つと、改憲論とは民主主義の側から出てくるになる。ここに注意する必要がある。

改憲論では96条の改憲がまず持ちだされたが、この前後から憲法を改正するということは、民主主義的であるという論点が出てきた。大阪の橋下元市長が、改憲とは民意を聞くことであるとした。

改憲手続きは、そもそも国民は発議をすることができないシステムになっている。3分の2以上の国会議員による発議が必要である。今のように首相が先頭に立って改憲を訴えるのはどういうことかを考える必要がある。

国民投票の類型には、国民からの要求が反映された「レファレンダム」と、政治家が上から動員する「プレシビット」という類型がある。今回の動きは後者にあたる。

私たちの体制は純粋なデモクラシーとはいえない。社会のシステムの中に権力の暴走を抑える仕組みが内在されている。

橋下元市長は憲法をどんどん改定すべきだというが、そうではなく、もう少し良く考えて、法律のようにコロコロ変えるのではなく、どうしてもという時だけ変更するというようにしたほうがよいのではないか。

そうすると、そうしたブレーキは反民主主義ではないかという反論がある。しかし、そもそも私たちの社会は民主主義と立憲主義の混合的体制、ハイブリットにできているものなのである。

そのうえで、現在の憲法改正議論をどのように捉えたらよいか。憲法改正の限界という論点がある。
憲法を改正するには二つの方法がある。一つは、憲法の規定に従った通常の改正。もう一つは、まったく違う憲法をつくることだ。

大日本帝国憲法から日本国憲法への改正はこのどちらにあたるのか。たしかに、手続き上は国会を通じて改正されたが、天皇から国民に主権者が変わるという大きな変化があったことから、「8月革命」説という説明もなされてきた。

憲法は自分を壊すような改正をすることはできない。根本的に変えることを迫られる事態にならないと変えることはできない。そのときに憲法制定権力が出てきて新しい憲法が作られる。

憲法を変えるのならば革命を起こすのが一つの方法だが、革命をせずに憲法を変えるのならば、そこには自ずと限界があるということになる。

であるならば、基本的人権の保障や国民主権の内容を大幅に変えられないように、日本国憲法の根幹である9条は変えられないという議論が出てくる。

自民党はこれまで自主憲法の制定を党是に、押し付け憲法論を主張してきた。日本国憲法は発端においては進駐軍が草案を作ったのは事実である。しかし、憲法が制定されてからは日本国憲法は順調に国民に浸透し、受け入れられてきた。当初の傷は順調に治癒してきたと考えられる。

憲法は、どんなものであっても押し付けであると言える。仮に昭和20年代に国民が自主的に憲法をつくったとしても、その後の世代にとって、その憲法は押し付けではないといえるのか。憲法を作っても50年後の世代は自分たちには関係のないものにならないか。
これは社会契約につきまという従前からの問題である。ホッブズは、後の世代も社会契約を黙認していると説明したが苦しい説明である。

加藤典洋氏は「選び直し論」を主張した。国民が国民投票をすることで憲法を選び直せば確かなものになると訴えた。加藤氏は憲法には汚れがあるから、その汚れを落とそうと訴えた。後に加藤氏は潔癖症すぎたと方向転換したが、最近は選び直し論に近いことを再び訴えていた。

以上のような議論にあるのは、私たちが権力や憲法をつくりたいということ。主権者がそれを訴えて何が悪いのかということである。

これに対して、長谷部先生は、憲法は法人の定款のようなものであると説明し、定款はいちいち変えるものではないから、使えるうちは使えばよいと説明していた。

また、なぜ改憲だけに力を注ぐのかという論点もある。国民にかかわることは、多くの場合は法律や政策決定の場で決める。憲法を変えればうまくいくわけではない。改憲論は、1番偉いところを変えれば、すべてがうまくいくというドミノだおし的な発想である。

しかし、実際の物事はさまざまな出来事の積み重ねによって決まる。改憲論はテキスト中心主義になりがち。テキストに注目して考え過ぎるべきではないのではないか。


憲法は、読んだだけではわからない。意味を後から発見するという、どういう意味なのか、みんなで確認する作業をしなければならない。

憲法に基づいて法律を作ったり、判例を積み重ねたり、実践を含めて憲法は成立している。白紙の紙に憲法の条文を書き込めがそれでおしまいではない。憲法にこそすべての鍵があると考え、そのことにこだわるのは問題がある。それよりも実践やプラクティスを重視すべきではないか。

そうすると、日本人は戦後70年かけて現在の憲法をつくってきた。憲法制定の瞬間にかかわったわけではないが、プロセスを積み重ねてきた。それがコンスティテューションではないか。

その上で、新9条論を考えてみる。
新9条論は、憲法を大事にしたいと考える人たちの側から提案されている。
想田監督は、安保法制で9条は死んだ。死んだものを掲げても仕方がない。むしろ従来の護憲派が新9条を掲げるべきであると訴えた。その上で、個別的自衛権や自衛隊を認めると訴えた。

しかし、ここにはいくつかの論点がある。
一つは9条は死んだかということ。仮に9条が死んでいたら、9条を改正する必要はなくなる。安倍政権は今は表に出さなくなったが、9条を変えたい考えはもっている。つまり9条は死んでいないということになる。

では、9条はどのように死んでいないのか。
軍隊を持つ一般的な国と、自衛隊はその位置づけが違う。軍隊は防衛のために必要なことは基本的に認められている。その中でやってはいけないことが規定されている。
一方で自衛隊は基本的にすべてのことが禁止されている。その中でやっていいことが規定されている。自衛隊は、憲法9条を解釈し、意味を一つ一つ発見してきたことで、やれることを増やしてきた。一般的な軍隊とはリストの建て方がまったく異なる。

これを改憲して、自衛隊を軍隊にすると、すべてのことが原則的にできるようになり、できないことを決めるようになる。原則OKからスタートするのでは、現在に比べてハードルの高さがまったく異なってくる。

決まりには原理と準則がある。憲法25条の生存権はある方向性を示している、原理である。準則とはルールのことで、国会は1院制にするとか二院制にするとかそうした決まりのことである。

井上達夫氏は、9条2項を素直に読めば自衛隊は違憲であるとしか読めないと主張する。しかし、憲法の読み方には常に解釈がつきまとう。例えば表現自由を定めた憲法21条には、「一切の表現の自由」と書かれているが、この一切という言葉を素直に受け取れば、ヘイトスピーチも認められるが、それが名誉毀損になる場合もある。しかし、一切を原則という言葉にすると表現の自由が弱められてしまう。だから一切という言葉が使われているがそこには解釈の余地がある。

このように条文には解釈の余地が常にある。したがって、憲法解釈にも、解釈叶な範囲と限界を超えた解釈があるはずである。集団的自衛権の行使を含んだ安保法制は、解釈の限界を超えたということができる。

では、新9条論はどうか。新9条論は解釈を排除できるという方向性の議論である。解釈の余地がない条文をつくるべきだという議論である。しかし、専守防衛や個別的自衛権という言葉を盛り込んでも、その解釈には必ず余地があるために、それにより限定されるということはない。

これまで自衛隊は解釈の積み重ねによってなんとかやってきたが、改憲するとそれらのプラクティスはすべてご破産となる。新条文による新しい積み重ねがはじまる。

法文解釈は法律の裁判官や官僚により行われるもので、民衆がかかわることができず、民主的ではないという意見がある。最後は主権者が出てくることは認めないといけないが、それはどうしても必要なときである。

本来、解釈は司法が決めるものである。しかし、日本の司法は統治行為論によりその判断を避けてきた。内閣法制局がその代わりを担ってきた。ほかに手立てがなかった。長谷部先生は「法律家共同体が判断する」と述べるのには、そこには裁判所も含まれていると考えている。そこで議論が行われることで、解釈の境目の理解が見えてくるはずだ。

新9条論のほかに、9条削除論という意見がある。国の安全保障は政策問題なので憲法の書き込むべきではないという意見だ。憲法には、一院制か二院制かというような政治的決定の正当性についてのみ書くべきであって、民主主義の闘技場を整備するだけでよいという意見である。

しかし、現在の憲法には9条の他にも価値にかかわることが書いてある。たとえば、憲法25条は、生存権を保障することで原理的な方向性を示している。これは、自由放任主義・リバタリアニズムを認めていない・差別していると言える。

憲法25条の条文は、現実には実現していない。かといって、実現されていない、空文化しているから削除するという話にはならない。

さらに、規制をなくすことで自由な闘技場・市場が出てくるのかという問題がある。9条削除論は、9条は偏った規制であるから、規制をなくして自由に討論すべきであるとする。しかし、規制をなくせば自由に討論できるのかという疑問がある。

つまり、政府と対等に議論することは非常に困難であるということだ。国民が持ちうるデータ・情報は政府と比べて圧倒的に少ない。また、自由な言論空間のためには、メディアが自由に政府を批判できるようになっていないといけない。

例えば、9条がないアメリカでは自由な言論空間が生まれているだろうか。アメリカでは軍産複合体により自由な言論の場が歪められている。9条のようなハンディがあることで、ある程度自由な議論ができるのではないか。

9条は、立憲主義の観点から極めて自然なものではないかという見方もできる。
歴史的な経緯を振り返ると、日本は権力の暴走で危機に陥った。日本国憲法はその悲劇の上にできたものである。9条はそうした権力の暴走を抑制するために生まれた立憲主義的な要素が盛り込まれたものである。こうした観点に立つと9条削除論は立憲主義を傷つけることにほかならない。

新9条論や9条削除論は、過去がない、真空状態のように物事を捉えているかのような議論である。私たちが歴史を背負っていることを考えると、立憲主義の根幹を見失っていると言えるのではないだろうか。

ーーー質疑応答から
その時々の多数決によって決めるという、純粋民主主義的な意見が散見されるが、それにひるんではいけない。そもそも私たちの社会は純粋民主主義ではない。その時々だけの多数決で全てを決めていたらとんでもないことになる。歴史的に考えるスタンスに立ち、一つ一つ反証していくしかない。

例えば、1925年当時、日本は男子普通選挙が導入され、当時としてはデモクラシー社会だった。そこには9条もなかったが、当時の日本人は本当にきちんと議論できたか。自分たちが望んでいた選択ができたのか問い直さないといけない。

また、徴兵制にすれば戦争をしなくなるというが、そうではない場合もたくさんある。政府に逆らえない、社会の空気に何となく逆らえないということで、自らが兵士になって戦場に行くこともある。

社会契約の問題点としてホッブズは徴兵制から自分の命を護るために逃げてもよいとしたが、ルソーは逃げてはいけないとした。

安保法制は法であり憲法ではない。政権交代すれば変えることは可能である。違憲訴訟は困難であろうと聞いているが、司法はまだ判断していない。

杉田敦先生

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